こんにちは、果子です。
新聞の書籍紹介のコーナーで見かけてからずっと気になっていた本
「歎異抄」
を 一昨日ようやく手に取りました。
なぜにそれほどまでに気になっていたか…
理由は、
「救われました!」のレビューの数々に惹かれて、です。
我が家の長男タクミは別室登校中の中学三年生(詳しくはプロフィールにて)。
悩み深き親子の心のよりどころになる教えはないかなと、期待に胸を膨らませて読み始めたのでした。
<不登校・別室登校> 歎異抄って?
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、老若男女、善人悪人、だれでも極楽に往生できますよ。
と、説いた、親鸞聖人。
歎異抄は、そのお弟子さん唯円が、師の教えを皆に正しく伝えたいと、親鸞聖人とのやり取りを思い出しつつ著した書、と言われています。
が、実のところ、著者はわからないという、ミステリアスな書物。
にもかかわらず、哲学者のハイデガー、作家の司馬遼太郎など、数々の著名人に「素晴らしい!」と絶賛され、多くの人々の心を惹き付けて止まない名著なのです。
善人なほもつて往生をとぐ いはんか悪人をや
(善人が往生できるというならば、悪人がどうして往生できないことがあるものか)
のフレーズ、きっと一度は目や耳にしたことがありますよね。
<不登校・別室登校> 歎異抄ほのぼの癒されシーン
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべき ことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審あ りつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
www2s.biglobe.ne.jp/~kouzanji/tanni.htm より
歎異抄を一通り読み終えて、一番心に残ったシーンです。
弟子唯円、あるとき親鸞聖人に
「先生、どうしたらいいんでしょう。
わたくし、南無阿弥陀仏を唱えても、心躍ることもなければ
極楽浄土に行きたいとも思えないんです。」
と尋ねました。
すると親鸞聖人
「おお、唯円、お前もか。
実は私もそうなんじゃ。
不思議よのう」
その後、それは煩悩のせいであり、煩悩があるからこそ阿弥陀如来様に救っていただけるのだよ。
と、親鸞聖人に優しく諭され
「そうか…」
と、ほっとする唯円。
ゆったりとした時間の流れの中の、生真面目な弟子と、全く上から目線ではない、ゆったりマイペースな師のやりとり。
まるでシンプルな線で描かれた水墨画を眺めているかのようです。
気忙しい現代においてはなかなか味わうことの難しいこのほのぼの感。
心がほぐされます…
<不登校・別室登校> 自分以外の誰かを救うなんてできるのか?
今生に、いかにいとほし不便と おもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
www2s.biglobe.ne.jp/~kouzanji/tanni.htm より
この世では、可哀そうな誰かを完璧に救ってあげることなんてできない。
救い切れないところは阿弥陀如来様にお願いしよう。
自分の子どもがつらい思いをしているのを見れば、親は何とかしてあげたいと手を尽くすでしょう。
それでもどうしてもなんともならないことってあります。
そんな時は阿弥陀如来様(人知を超えた大いなるもの)にゆだねてしまうのが大正解。
と親鸞聖人はおっしゃいました。
現在では、科学や脳科学の分野でも、祈りの効能は実証されつつあります。
そして、助けてあげる
救ってあげる
そんな気持ちは親の傲慢なのかもしれないと反省。
あわてず騒がず
大いなるものの力を信じてゆったりと
子どもの再生力を信じていたいものです…
<不登校・別室登校> 物事には善いも悪いもない
聖人の仰せには、 「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来 の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善き をしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほ したらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、 火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、 まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と こそ仰せは候ひしか。
www2s.biglobe.ne.jp/~kouzanji/tanni.htm より
親鸞聖人はおっしゃいました。
何が善で何が悪なのか、私は知らない。
全ては火事で燃えて消えてしまうようなはかない世界の中で、念仏だけが真実。
学校に行けないことって、平らな視点から見れば、ただ一つの状態に過ぎませんよね。
よいことでも悪いことでもない。
「冬になったので北風が吹いてきた」くらいの。
「寒い寒い、北風が冷たくて風邪をひいてしまう…」と嘆くも
「寒いなあ、家でこたつに入ってぬくぬくしよう」と、寒い季節ならではの楽しみを見つけるも
「北風に吹かれて裸の木々って風情があるなあ」と見惚れるも自由。
そして、
善いとほめられること
悪いと責められること
そのほとんどが、時代や状況によってころころと変化していくはかないもの。
依るべきは、真実の念仏だけ。
この念仏、親鸞聖人にとっては南無阿弥陀仏でしたが、
もしかしたら、誰もが自分だけの「南無阿弥陀仏」を持っているのかもしれませんね。
ただ忘れているだけで。
コメント